店の外はタケシと藤村が来た時と同じ状態だった。まだ人々は止まったままで、まるで視界一杯の立体的な絵でも見ているようだ。ミキを担いだまま、アーケードの人々を避けながら歩いた。目線を真っ直ぐに向け、奥歯を噛み締めながらついさっきの、あの熱い部屋の事を思い出していた。揺らめく空気の向こうに見えた横たわるミキ、扉の裏側で倒れていた幼い寝顔のドクター・ロウ。彼は目を覚ましただろうか?あの調整室と呼ばれる部屋で、何が起きていたんだろう、まるで炎が揺らめく火災の建物の中へ入ったような感覚。全身が焼かれそうな温度の中で、平然と眠っていたミキ・・・。様々な思いが頭の中を流れていく。ただひたすらに歩き続けていると、何処からかタケシを呼ぶ声が聞こえた。最初はかすかに、次第にはっきりと、その声は藤村のものだった。
「タケシーー、タケシ、待ってくれよ。」
振り向くと、藤村が駆け寄って来ていた。
「お前、大丈夫か?」
藤村に目だけで笑って答えると、また自分の部屋を目指して歩き始めた。
「俺、車取ってくるから、待ってろよ。」
車と聞いて、タケシはほっとした。正直なところ、かなり疲れていたので、気力だけで歩いていたようなものだったのだ。その気力も、部屋に辿り着く迄もつかどうか自身がなかった。その場で自分を支えるように仁王立ちになり、藤村を待った。
その時、左肩で腰から折れ曲がっていたミキが動いた。だらりと垂れていた手がタケシの背中を押したのだ。Tシャツの上から、熱がじわじわと伝わって来る。
「ミキ、おい、お前、気が付いたのか?」
「降ろして・・・。」
タケシは近くにあった電柱に右手をついた。思い出したように掌に痛みが走った。そうだ、そういえばあの時火傷をしたのだった。熱く焼けたドアノブを掴んだ時に、ジュッと音を立てた手・・・。タケシはゆっくりと腰を下げて、ミキの足を地面に着けた。すると、今まで静まり返っていた周囲が急にざわめき始めた。耳慣れた雑踏が息を吹き返した。タケシはミキの両足を左腕で抱えたまま、しばらく動けなかった。顔を上げて、辺りを見回した。確かに、止まっていた時が動き出していた。
「タケシ?」ミキがタケシの肩を小さく叩いた。
「手、離して、動けないよ。」
ああ、そうだ、タケシは左腕をミキの足から離した。左上を見上げると、ミキが不思議そうにこちらを見ていた。
助けることが、出来たのか。タケシはホッとして気が抜けて、その場で寝転んだ。人々がじろじろと二人を見ながら通り過ぎて行く。
「ちょっと、大丈夫?」
ミキがタケシを起こそうと腕を引っ張った。その手は熱く、力も弱かった。そこへ、真横に止まった車がクラクションを鳴らした。タケシが顔だけ起こすと、藤村がその車の運転席から大声で叫んだ。
「おい、大丈夫か?乗れ!」
タケシはミキの力を借りながらやっとのことで立ち上がり、一緒に車に乗り込んだ。
タケシの住むアパートの前まで来ると、三人は車から降りた。蝉が耳をつんざくように鳴いている。藤村がタケシとミキに片方づつ手を貸し、階段を上がる。二階の一番奥の部屋までの通路がとても長く感じた。
「なんでこんな時に、俺の部屋は一番奥なんだよ・・・。」
「知るか!」
藤村が二人を気遣い、支えながら、やっと部屋の前まで来ると、タケシがジーンズのポケットから鍵を取り出し、ドアを開けた。三人は傾れ込むように部屋へ入った。
部屋は蒸し暑い熱気でムンムンしていた。タケシの部屋は縦に並んだ1DKで、玄関のドアを開けておいて、キッチンと六畳の部屋の間の戸も開けて、六畳からベランダへ続く大きな窓のまた開けると、すうっと風が通り抜ける。今日もそうやって部屋の空気を入れ替えると、玄関と窓を閉め、エアコンのスイッチを入れた。男にしてはさっぱりと片付けられた部屋で、三人は腰をおろした。一瞬、ホッとした空気が流れた後で、
「あー、麦茶、麦茶。」藤村が冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップを三つ、部屋の小さな机に置くと、向かい側に座っているミキに問いかけた。
「気分、悪くない?」
「ちょっと・・・。」ミキはぐったりとしているようだ。
「お前、熱あんだろ、横になれよ。」
タケシがベッドを勧めると、ミキは頷き、自分から布団に入って行った。首まで薄いタオルケットを掛けると、ミキは急に震え始めた。
「寒い・・・。」
「ああ、そうか、寒気がするんだな、ちょっと待てよ、毛布出してやる。」
押入れをゴソゴソしているタケシに、藤村が言った。
「毛布どころじゃ足りないと思うぜ。冬用の掛け布団出してやれ。」
「今は夏だぜ、寒気がするっていっても、熱の出てる人間には暑すぎるんじゃないか?」
「いいや。まだ足りない位だ。あと、エアコンを暖房にしろ。」
「このクソ暑いのに、なんで暖房なんだよ、快適な温度にして、頭だって冷やしてやらないと・・・。」
「ミキちゃんにとっては、快適じゃない。見てみろ、凄く震えてる。寒いんだよ。特別に熱が出てる訳じゃないんだ。本当に、寒がってるんだよ。」
強く目を閉じて歯をガチガチ言わせながら震えているミキを見て、タケシは藤村に問いかけた。
「どういうことなんだ?」
「先ずは冬用布団だ。」
藤村の言葉には断固とした自信があるようだった。タケシは急いで厚い布団を出し、ミキに掛けてやった。そして藤村の言う通りにエアコンも暖房に切り替えた。
「ストーブないか?」藤村が追い打ちを掛けるように言うと、
「ふざけてんのか?」タケシの動きが止まった。
「ふざけてない。」
「ふざけてんじゃねえかよ、人が黙って言うこと聞いてりゃ、調子に乗りやがって・・・」
「ふざけてない。彼女はそれくらい寒いんだ。」
心に出始めていた怒りの目を摘み取るような藤村の冷静かつ自信に満ちた言葉に、タケシはそれ以上言葉を失い、じっとミキを見つめた。
「・・・ストーブ、ない。冬はエアコンだけで乗り切っちまうから。」
ミキの歯がガチガチと音を立てる。
「そうか。」
ミキの髪の毛が震える。
「なあ、藤村・・・。」
震える息・・・。
「なんでこいつ、こんなに暑いのに、なんでこんなに、こんなに震えるくらい寒がってんだ?」タケシの目は見開かれ、ミキの方を見たままで藤村に問いかける。藤村は溜息を一つついて答えた。
「ミキちゃんは、あの調整室で体温を調整されつつあったんだ。ドクター・ロウは、ミキちゃんを自分の元へ連れて帰ろうと、体温の調整から始めた。俺の時は、地球っていうか、この日本に派遣される事が決まってから、様々な情報と言葉・・・ここで生活していく為に必要なことをこの頭に詰め込まれ、それから最後に体温調整だった。あの星から地球へ急に来てしまうと、寒くて凍えちまってたんじゃないかな・・・。ミキちゃんは、きっとその体温調整の途中でお前に連れ戻されたんだな。でも大丈夫だろ、死にはしないんじゃないかな。俺もこっちへ来て最初のうち、凄く寒かったけど、次第に慣れたからさ。心配すんな。」
藤村の話は完全に信用することなど出来る筈もなかったが、全て信用出来ないと言い切れないとタケシは思っていた。実際にタケシはあの調整室へ入り、ミキを連れ出してきたのだ。右手の火傷がまた痛みを増したようだ。
何が本当でなにが嘘なのか、何を信じて何を疑えばいいのか、タケシには解らなかった。夕方六時に周囲の全てが止まり、あの宝石店の向こうで見た事、自分の行動、全ては幻想だったと強く思えば思えないこともない。しかし、この右手の火傷、赤く腫れた掌は自分のこの目に今も映り、痛みも感じている。俺はどう考え、行動して行けばいいんだろう、そしてミキを見つめながら、こんなに震えている彼女をどうしてやることも出来ない自分が悔しくて、奥歯をぐっと噛み締めた。その時、
「か、かえ、り・・・たい・・・。」
震える口からミキの小さな声が漏れた。
「ん?なんだ?何か言ったか?」
タケシは耳をミキの口元に寄せた。
「かえ・・・り・・・たい・・・。」
「帰りたい?何処へだ?家か?」
ミキの固く閉じた両方の瞼の端から涙が流れた。
ベッドの側に藤村も寄って来て、ミキを見た。顔面は蒼白で、震えは止まらず、声は消え入りそうだ。
「ミキちゃん、おい!」
藤村がミキの両肩を掴み、強く揺さぶった。すると固く瞑っていた瞼が緩み、震えながらゆっくりと目を開けた。ミキの瞼が半分開いた辺りから、タケシと藤村はその瞳を見て息をのんだ。丸い黒目が、うっすらと赤みがかっていたのだ。
「お前、目が!」
タケシがミキの瞳を食い入るように見ていた。
つづく