2012年 05月 06日
『時間外のルベウス』 ⑪
(ねえ、お母さん)
女の子の声がする。子供特有の高く澄んだ声。それに答えるように大人の女性の声がした。目を開けると、見慣れた天井があった。ミキの部屋だ。ミキのベッドの上にいる。今までのあれは夢だったのかと喜びのあまり飛び起きて部屋から出た。
階下からまた声がする。
(ねえ、お母さあん)
誰か親戚でも来ているのだろうか、どうやら親子のようだ。声の様子から、あんな小さな子供が親戚の中にいただろうかと考えてみたがそのような子供は見たことがない。ならば、近所の親子が母のところに遊びにでも来ているのだろうか・・・そっと階段を降りて会話に近づいていく。階段のすぐ右側にある台所で、子供と女性はなにやら食器などを動かしているようだ。料理でもしているのだろうか、まな板を包丁でたたく音もし始めた。ミキはほんの数センチ、ドアをずらして覗いてみた。
親戚ではない。近所の人でもない。母だ。ミキの母の背中が見える。そのすぐ傍に小学校低学年くらいの少女が母の方を向いてしきりに訴えている。
(帰りたいよお)
(ここはミキの家でしょ、お部屋で寝てなくちゃだめじゃないの。熱があるんだから。)
そっと見ていたミキは、はっとした。思い出した。あの少女は私だ。いつもああやって台所に立つ母の横で話しかけるのが好きだった。そう思って見てみると、昔の写真に写っているミキとそっくりのようだった。写真でしか自分の幼い頃を見ることなどないし、それが動いて話しているのだからすぐには解らなかった。声だって、普段自分で自分の声を客観的に聞くことなど殆どないのだから、気が付かなかった。いや、気付く訳がない、わかる訳がないのだ。こんな光景など目にしている方がおかしいのだから。
(ほらほら、寝てなさい。熱がいっぱい出てるのよ。学校だって休んでるんだから。)
母が幼いミキを急きたてながらこちらへ向かって来た。ミキはドアから離れ、二人をよけようとした。が、よろけて後ろの壁に手をついた。幸い、音はせず、二人は気付かずに怪談を上って行った。ミキは台所へ入り、さっと見回してみた。今朝過ごした台所と何ら変わったところはない。電気製品が少し違ったものが見られるくらいだ。
冷蔵庫に、一枚の絵が貼ってあった。四方を丸いプラスチックの付いた磁石で留めてある。その絵は、絵具で描かれていて、見た瞬間、ミキはそれに何が描いてあるのかわかった。ミキが昔、一番好きだった日本の昔話でよく絵本を母に呼んでもらっていた「かぐや姫」の一場面だ。斜めに切れた竹の中に、小さな赤ちゃんが入っていて、口を大きく開けて泣いている。周りは金色に輝き、その横にお爺さんの驚いた横顔がある。それはその本の中で一番好きな場面の絵を真似して描いたものだった。こんな絵を描いたのはいつのことだったのだろう、ミキは下の角を留めてある磁石を外し、めくってみた。すると、「一ねん三くみ・たどころみき」と書いてある。小学一年生か。そうだったのかもしれない。今となってはもう遠くてはっきりとは思い出せないけれど。ミキは磁石を元に戻し、台所の隣のリビングへ目を向けた。こちらはカーテンが違っているので、雰囲気がガラリと変わったような気がする。しかし、そのカーテンでよく遊んだものだった。掃き出しの窓を開けると、春にはそよ風が吹き込み、カーテンが半円に広がる。そこへ入って自分だけの場所、という気になって遊んだ。好きだった絵を描く道具を持ち込み、よく描いたりしていた。台所のテーブルの下に入っておやつを食べたり、外では開いた傘を何本も使って囲いを作り、その中で遊んだりもした。懐かしい気持ちが込み上げて来る。ミキはその隣の和室にも行き、今自分が暮らしている各部屋、変わりないようで少し若く、同じ家具でありながら、置く位置で表情が違って見える姿を楽しそうに見ていた。
階段を下りて来るスリッパのパタパタという音が聞こえた。母が戻って来たのだ。途中だった夕飯の支度を続け始めたのを確かめて、ミキは階段を上った。
つづく
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by kazuko9244
| 2012-05-06 20:23
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